写真⬛元町、中華街、ベイブリッジ、古里墓参り
●47年前2月17日横浜駅に降りた。父親から頂いた『人間は正直であれ、素直であれ、』を座右の名に降り立つた横浜の一歩、三人の華橋青年が迎えてくれた、20歳の旅立ち、振り返ればそこに未来がある。空手道47年、太極拳37年、気付けば長い年輪が出来てた。駆け足だった気もする。『生きる力は武道ある』『2015年12月31日』、過ごせし姿駆け足で振り返る。生まれは大分県の山間の里、緑豊かな山河の美しい我古里、大分県の主流の大野川の上流、丘に登れば久住山、阿蘇の山並み、景色と人情だけは都会に負けない、椎茸やかぼすの産地、近くには名所、風蓮鍾乳洞、稲住鍾乳洞、臼杵石仏、三重の内山観音、お伽噺は炭焼き小五郎、吉四六さん話し、竹田天空の城跡、岡城、がある。今年三月九州旅行を33名でした、福岡では太宰府天満宮、柳川、八女の六所宮、佐賀では嬉野温泉、吉野ヶ里遺跡、熊本では熊本城、阿蘇五岳を望、黒川温泉、大分では光城の月の岡、古里三重の道の駅、九州旅行に快く同行頂いた人達には素晴らしい縁でした。旅の最終地、三重の道の駅では親戚、同期生、旧友の皆さんが待ってて頂いた。夜なべしてお土産を用意頂いてた、ひさしぶり孫二人連れて墓参りが出来た。学生時代空手の練習行ってた菅生神社、何がなんでもと見学に行ったお弟子さん達、そこで演武したそうな!同期生が涙したそうな!青春真っ只中、思い出した短い時間を、彼と私しかわからないだろう、わたしは不幸にも親の縁薄く、小学5年生と時、11年間の闘病生活の母を亡くした、独り子、家業が新聞販売店と反農で、小学3年生から高校3年生まで新聞少年、炊事洗濯は私の仕事、寂しい思いと苦労は人並みにさせられた少年期、野山を駆け回りチャンバラごっこ、遊び道具は全て手造り。農繁期には子供は労働者の一員だった。全く今と異なる貧しい不便な時代、終戦三年目に私は生まれた。戦争は知らないが、生の声を父からその戦友から酒の席で伺ってた。幼い私を背中におんぶして育ててくれた父も早くに亡くなった。⬛高校入学して柔道を県警察武道館にて始めた、高校一年の時に東京オリンピックだった。始めて白黒テレビが入った、この時から正式種目になった日本柔道は無差別級でオランダのヘイシンク選手に破れた。反骨精神が涙した、学友が得意げに沖縄に伝わる空手道の話をしていた。南海の一子相伝、南海の秘拳を解説している、中学生の新聞配達で夕日に染まる川原の湖畔で演じてた、『あれだ!』神秘的だった、次の日道場を学友と訪ねた、道場は野外だった。『男はまず強く優しくなければ』男の子一分が立たない男気の時代、独り子の私は人一倍それが強かったと思う。親一人子一人の殺伐とした生活から抜け出そうともがいていたのだと思う。道場の先生は兄同様可愛がって頂いた、空手道のお陰か高校生活を真っ直ぐ過ごさせて頂いた。稽古は休まず励んだ、先生はたまにしか指導してくれなかった。それが指導だった事を今痛感する。⬛、今の様に手取り足取り、考えられない、過保護は人を育てない、野外道場で練習していた仲間も何時の間にか私独りになっていた。当時機関車で50分の気車通学が私の勉強の場所、帰宅したら近くの神社でローソク立てての練習、高校では生徒会長、後輩が良く虐められてる状況見て、悪の巣窟の学校を少しでもと悪達と向かい合う日々、『力のない正義は無価値、正義のない力は暴力』を痛感する。心技共に成長する事が我が人生の軸と感じた時期。進学就職、高校卒業後迷わず、此れまでの中途半端な空手が決別出来ず、一念決意、家出同然にアルバイトした金で大分県を後に鹿児島に行く、鹿児島に少林寺流錬心舘総本山がある。先代宗家保勇先生を頼り、本場での修業がはじまる。仕事はあるタイヤ会社に勤めながら、空手命の時、良く先代宗家は若者に夢を持たせてくれた、奥さまの手料理を頂き頂きながら、学びの庭を開いて頂いた、一年半たった時、命運を分ける出来事があった。群馬県前橋市で各流派が大同団結して国体参加を目だそうのスロガンの下、第一回都道府県空手道選手権大会があり鹿児島県を代表して錬心舘から上京した。相手選手をタンカ―で運んだ、この試合を横浜華橋青年の皆さんが観戦されていた、以後総本山に私宛に横浜華橋総会から招聘状が参り、先代宗家から意思の確認を受け、若干20歳たなったばかりの、嘴の青い若造、自分の未熟考えながら、上京を決意した。『若いということは失敗は経験、空手道初心から見直しやり直し、独りぼっちは怖いものなし』苦労覚悟での都会への旅立ち、別れには鹿児島中央駅ホ―ム一杯の送迎を受けて、二度とこの地には帰れない、送別の送り、みんな、みんな、純粋だった、一途だった、青雲の志を持って、寝台特急富士当時26時間かけ横浜駅に立った。棒と空手衣のみのを持って着の身着のまま、三代20才の春の新しい旅立ちだった。横浜中華街の一角台湾系の横浜華橋総会、横浜中華学院と隣接している、図書館を整理して、15坪の畳道場があった。華橋青年を中心にインターナショナル、日本と段々多国籍道場が出来ていった。20才で指導者となり今思えば、肩肘張った青年期だったかなと思う。当時の事情よく知ってる方が、生徒が慕って来る中で『三代さんも青春真っ只中、先生と呼ばれて慕われて、いつも気を抜かず、自分以外の姿でいなければならない、ある意味で可愛そうだね』と言っていたそうだ、横浜に来て旗を掲げ、頼れる者は自分一人、毎日練習の虫だった、独りぼっちになって孤独感を味わいながら、それもいいものだった。突き蹴り挑戦、食も事欠く、山籠りしたり、脳もなければ知恵もなし、理屈なく実行あるのみ、若いとは素晴らしい、意思が身につけて、私が寝てる所を起こすのに生徒が何人も犠牲になった。無意識な事が身に付いてた。身延山で合宿中、練習がきっく、クデーターが起きた、七人の有段者が突然襲ってきた、秒札、四人が倒れた、語り草の珍話し、太極拳のなりそめは24歳の頃、中華街道場四年たった頃、華橋総会に招待状が來た。『中華民国第一回世界華橋青年国術観麻大会』華橋青年10名を引率して中華街の重鎮が団長、私は師範として、始めての海外、台湾着いて右も左も文化の違いを感じながら、素晴らしい規模の5日間の大会に参加した。この大会が私の又ひとつの運命の出会いだった。始めて中国武術の対面でした。珍しい曲線の動きの体の使い方、激しい拳法を外家拳と言うそうな!その中でゆったり柔らかく動く、武術とは思えない中国のどかな動きを見たとき、中国の悠久の片鱗を見た、後で内家拳、太極拳なと言うそうな。そこで中国指導者の方が中国武術の話を少しして頂いた。中国は『揚子江を境に南拳北腿に分かれその特徴は南船北馬』と言う。観摩大会最終日最後の時間私共の空手演武、スポットライトを浴びる静寂の中で未熟ながら、真剣に演じた。大会終了後、会場は観客と選手で交流の場となり会場一杯の親善交流がなされてる中で歩調正しい軍隊が私の前で立ち止まり敬礼をされた。『空軍の黄将軍が見学されてました、お会いしたいと申しておられます』と、運命の糸は縁が縁を育てる。台湾で空手道を教る縁となりました。⬛台湾での自主トレは欠かさなかった。総統府隣新公園で朝靄の中でマングローブや林の中で柔らかくゆったり動く集団があった、大会で見たあの太極拳。宿舎に帰っても頭の隅から離れない、横浜中華街にはなければならない中華文化、剛柔相済、空手道と太極拳、取り組むのには、多くの陰口が聞こえて来る、空手以外求めては邪道の声を肌で感じながら、我が道は我がが開く、雑音や嫉妬や風当たりは風の様に流し、道が目的が決まれば、脇道はしないのが私の性分、同じく日中国交回復後、中国5000の歴史に国内は友好ムード、太極拳もこの時から静かなブーム、色んな縁を頂きながら取り組んで来た。試行錯誤の日々日中国交回復の立役者は太極拳とパンダと勝手に思ってる。第三全日本太極拳大会が関西から関東に川崎市体育館で次の年横浜文化体育館で中国武術が始めての国際大会、第一回アジア武術選手権大会、合わせて日本武術太極拳連盟結成に関わる中で夢は大きく膨らんだ、第十一回北京アジア競技大会開幕式集団太極拳、日本側の監督を仰せつかり全国を指導させて頂き日中1400名の素晴らしい演武は内外に大きな影響を与えられた、太極拳の発展の源となった。日本武術太極拳連盟結成後、理事として国際大会、指導員制度化、全日本武術太極拳選手権大会、全日本ジュニアオリンピック競技大会、全日本武術太極拳競技大会、審判として、組織化目だし神奈川県連盟結成、神奈川夢国体国際競技場で太極拳1400名、長拳200目名の公開競技も忘れらかれない。走った走った。日本太極拳友会は一貫して選手権大会には優秀な選手を育成し多数送り出している。近年内田愛、佐藤直子はその代表です!吉永麻理子の剣12連覇は素晴らしいの一言、奈良英治の楊式、中沢潤の総合、集団太極拳の定番、その他次につなぐもの達も育ってる、太極拳体操から太極拳になる日を私は夢見てます。拳友会では年間には選手合宿、交流合宿、講習会、対外指導、技能検定、交流演武大会、確りと地に足を着け軸はぶれず惜しまず努力してきた。来年申年は如何な年か、過ぎた日々を思い、これから出来る事を縁ある者達と時を大切にしたい、『花にも命がある』2015年ありがとうございました。無事に過ごせた事に感謝致します、交流ありました皆様に幸多絡ん事をお祈り申し上げます。拳友会三代